ささくれ塾

冒険に憧れる都会好き。世の中にささくれた事や、好きな音楽や食べ物の事を書くブログ

今こそ言うべきは「We Are The Champions」

 筋肉にピッタリフィットしたレスリングウェアのような衣装。開いた胸元には金色の毛が茂っている。「美しい自分を見よ」といわんばかりのパフォーマンスを放つ彼は、ご存じQueenのボーカリストフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)だ。

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デビュー当時のメディアの反応と同じように、私も彼らを簡単に受け入れられなかった。

このパフォーマンスは何なのだ?いったい何がしたいのだ。「変な人だ Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン」と思ったのだ。しかし、音楽は綿密でメロディアス、そしてドラマティックだ。

 

「理解不能」な状況がずっと続いていたのだが、最近になってようやく純粋に彼らの音楽を素晴らしいと感じるようになった。いや、いまは唯一無二の存在にさえ感じている。

 

あの衣装であの歌唱力で「We Are The Champions」と何度も歌われれば、何か人以上の何者かからそういわれているような気がするのだ。つまりそれは音楽、芸術に対してのパフォーマンスということだ。彼は芸術で優美で壮麗な日常以上の世界に手を伸ばしていたのだと理解できる。リスナーも含めてその世界に連れて行くのがQueenのショーだったのだ。

 

書いているうちに熱くなってきたな。

 

なんだかな、私事で恐縮しますが、外国でひとりで働いて裏切りにもあって、

それを超えようとしたときに、頭の中でなったのが「We Are The Champions」だった。

惨めな気持ち、空虚な気持ち、そういうものを白紙に戻して仲間たちに言いたかった言葉が「俺たちがチャンピオンだ」だった。

そう信じてまっすぐに進んで、知らないうちに頂に立っていればそれでいいじゃないかと言いたかった。

 

それは間違いでもなんでもなくて、「自分が何かに勝ち続ければ、そんな覚悟さえあれば間違いなく自分はその何かのチャンピオン」で。そうあり続けることこそが美しいのだ。と、結局、フレディという芸術家はそう伝えたかったのではないかと思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

HPのノートパソコンEnvyは美しいのだ

 あぁぁ、美しいノートパソコンが欲しい。それがありさえすれば仕事も人生も劇的な変化を迎え、あとは、うなぎのぼりになるだけだ。そう思ったことはないだろうか?

 

 わたしはある。というよりいつもそう思って浪費している。

 

そんなわたしは、昨年、いわゆる新興国と呼ばれる国にやって来た。

そして、パソコンをApple製品からWindowsに変えた。理由はいろいろあるが、ひとつに、新興国ではMacbookは高価品で主流ではなった。多くの人が廉価版や一昔前のWindowsラップトップを使っている。別段それに倣う必要もないのだが、同じWin環境でちょっと仕事してみたかった。十数年ぶりだわさ。

 

 Macbookからの乗り換え先に選んだのは、HP(ヒューレットパッカード)のラップトップ。理由はスタイリッシュで安全性が高く、頑丈、多くの国で新製品を買える。というところだ。

 

 一台目に選んだElite Book Falio G1 Core M7 4K液晶モデルだった。これは、とにかく薄くて丈夫。そして4k液晶が美しい。1年くらい外国で一緒に仕事をした。が、仕事で時々メモリ不足(8Gモデルだった)が気になりだした。Windowsと同時に仮想OS(Linux)も動かしてブラウザのタブを乱立させているから、仕方がないんだよな。ごめんよ。と思いつつサブ機に回す決心をする。

 

 Falio G1でほかに不便だと感じていたことに、インターフェイスの問題がある。軽量化モデルのためusb-cが二つしかなかった。変換アダプタやドックも買ったけど、取り外す手間を面倒に感じていた。カメラやiPhoneは6sでusb接続だし、時々有線マウスも使う。

その辺を汲んで次の考えると、条件はメモリは16Gでfalioと同様にスタイリッシュ、USB3も使えて現地で調達できるモデルとなった。

 実際探してみると、その条件に合うラップトップはほとんどなかった。しかし、ショッピングモールをプラプラ歩いているとき、たまたま手にした広告で見つけたのだ。それはHPのEnvy。spectreと並ぶプレミアモデルだ。日本のモデルを調べたときはメモリは8G RAMがマックスでがっかりしてたけど、こちらではなんと16Gのプレミアモデルも販売されていたのだ。そして店頭で即購入した。 

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 Envyはバッテリー持ちも公称14時間と、falioより安心感が増している。スペック的に液晶はFHDで重量もfalioより増したが、安心して便利にメイン機として使えるラップトップだ。

 

 こうしてEnvyがメイン機の座に収まり、4k液晶のfalioはサブ機になったのだが、軽くて丈夫なfalioはまだまだ使うつもりで。やっぱり4k液晶は魅力的なのでした。

「美しい思い出だけを残して消えたいの」を知る

 ふと、Twitterなどで自分のタイムラインを眺めてみると、個性も面白さもみあたらなさにがっかりする。ありのままや、日々徒然など、変哲のない小さな浮き沈みがあるだけだ。

 

お前さんはいったい何者や、何やったんや?

 

だからこんな言葉を思い出した。

「美しい思い出だけを残して消えたいの」

 

なんて、潔く真理を得た言葉なのだろう。

そうなのだ、つまりそういうことなのだ。

意識的に、客観的に過ごさない限り、時間の垂れ流しは変哲のない日常に過ぎない。

 

その変哲のない日常に見返りを求めるようになってしまって。

もはやタイムラインの馴れ合いには、何の美しさも存在しないのだ。

 

見返りなど求めず表現をするのだ。

拡散されていた、いじめ動画を少しみた

 これは普通の人は見るべきじゃない動画だった。テロリストと見分けがつかない。

なぜ、そのようなことが起こってしまうのだろうか。教育や管理、原因はいくらでもあるように思うが、かなり稚拙だが自分なりの視点を少し書いてみようと思う。

1. 人間は根本的に自分の感情の原因を解明するのが苦手

2. 人間は自身の安全のため同調しやすい

3. 人間はスリリングな物事に興奮する傾向がある

4. 人間は自分が上に立つヒエラルキを嫌いではない

 

1.について、大人社会でも責任転嫁が行われたり、ストレスの原因を偽装し、やつあたり行為を見かけることがある。

2. これは社会における同調圧力は言うまでもなし。

3. 大勢とは言わないが、スリルが好きな人は少なからず存在する。そのような人が暴力を振るい、4. でいうヒエラルキの上にたった。その他の人は2.で書いた、安全の為に同調する。いろんな場所で言われていることかもしれないが、そのような仕組みを想定してみた。

 

つまりいじめは起こりえるという前提で対応策を考えなくてはいけないと思った。

さまざま暴力については、自分がその恐怖を知り、それが相手に最悪どのような影響をもたらすか教育をする必要があるように思う。

 

また、いじめ被害者を社会は完全に保護できなくてはならない。しかもASAPでだ。

加害者はいじめる動機、場所と時間があるからそれを行うのであって、問題時にはその機会を根絶するよう取り組まなければならない。(加害者の自宅謹慎や監視、証拠を残す対策など)つまり多くの注意力が必要なわけだが、それを教師個人の努力に依存して行うのはほぼ不可能なことのように思える。

 

わたしが子供のころは、教師は人間教育も担う存在というイメージが強く、かなり偉い存在で、親社会などと協力するような風潮があった。

いまは、ニュースなどを見ているとそのようなイメージが崩壊しているように思う。

 

教師の力が衰え、地域社会が衰退し、さらに離婚問題で片親が増えれば、道徳的な教育の機会が減り、子供社会への注意力が衰えるのは考えてみれば当然だ。

必要とされているのは、弱った注意力を補助する強力な保護プログラムなのではないかと思ったのだった。

何か世の中騒がしいから取り急ぎCHAGE&ASKAの名曲を貼ってく

 何か世の中騒がしいから取り急ぎCHAGE&ASKAの名曲を貼る。

 なんか裏切られたとか、しょぼいことは言わずに彼らの仕事はとても素晴らしかった。

とりあえず健康を取り戻して欲しいと思うぞ。

 

さて曲の方

 

「男と女」「太陽と埃の中で」「On Your Mark」「Pride」の4曲は特に好きな曲。 

最初に聴いたのは、20年以上も前だけど今でも色褪せない。

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そして定番「SAY YES」「YAH YAH YAH」「めぐり逢い」

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ASKAソロだけど名曲

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インドネシアでは幼稚園(kidengarden)から英語を教えてるらしいぞ

 こんばんは、深夜。今日は英語の話です。

インドネシア人の友達とTOEFL IBTのスコアについて、日本がインドネシアに完敗していることを話してたんだけど。

それもそのはず、向こうは幼稚園から英語とアラビア語を教えているそうなのだ。

ぼくは中学で初めて習ったって話したら、それは遅いと言われましたと

 

今もそうだけど、技術輸出国として英語できないとまずいんじゃないかとか

これから人口減少化に伴い外国人労働者が増やすとか

なおさら英語の価値は高まりそうな要因はいろいろあるけど

何より個人の仕事の選択の幅が広がるはず

日本社会が息苦しければ、ちょろっと他の国で働くとか

物価が高いのに給料が上がらなければ、安い国に住んでみるとか

 

そういうオプションが与えられれば働き方も暮らしも随分変わると思うんだがにゃ

 

「恋愛はコスト」に対抗できるのは運命と生き死にのロマンスだけだ思う

 だな。で、今回も終わってしまいそうなタイトルですが、少しおつきあいくださいませ。

さて、なぜ今回のテーマを書こうと思ったかというと、11/24のクローズアップ現代のタイトルが「恋人いらないってホント? 出現!いきなり結婚族」 というタイトルで放送され、内容がネットで話題になっていたから。

 

若い世代の間で、恋愛はプロセスが無駄、お金もかかるしコストだ。

しかし、生活の不安が消えるなら、子供が欲しいから、という理由で結婚はしたい

という意見が増えてる様子。

 

ふむむ...かなり恋愛経験を積んで、異性の求めるものがわかっていれば、上手くいくかもしれないが、全く恋愛経験なく社会的な自由が与えられている状況で、果たしてそれが成立するのだろうか...

魅力的な異性からの誘惑があれば一瞬で崩壊してしまいそうだが..

 

まあ、それはさておき、恋愛がコストでパターン化しているというのは理解できるし共感する。そして世代間の格差が拡がり経済的な希望が薄い今の世の中だと、まず自分の安定を求めるのは当然だ。元来、結婚制度とはそのようなものだ..と言ってしまえばそれまでだが、何か腑に落ちない。

 

腑に落ちないのはいつものことだが、もう少し続けよう

 

本来、我々は経済的な安定だけでなくロマンスを求めているはずだ。

そして、それは物理的な快楽ではなく、美しさや尊さという価値である。

大ヒット中の「君の名は。」を考えてもらえばイメージしやすいと思う。

「強い運命」とか「生き死にをかけたロマンス」の物語の主人公になればこの経済主導の恋愛観から抜け出せるのかもしれない。

 

実際、日常生活でそんなにリスクは取れないし、その状況に出会うのは難しいのだけれどね..